結露するまえのこと 2

病院は、家から自転車で10分ほどのところにあった。

1年とすこしぶりの再会に祖母が喜んでくれるに違いないと期待をしていたが、祖母は私を認識しているのかよくわからない反応を示すにとどまった。意識はあるにはあるのだけれど、誰だかわからないようだった。

春に、祖母と祖父を描いた絵はがきを送ったとき、ふたりして「これは誰からや」と言っていたと母から聞かされてショックを受け、怒りすら覚えたことがあった。怒りを覚えたことに傷つきもした。老いに向き合うほどに悲しくて苛立ってしまうのがいやになって、私はそのことについて考えることを、その時からやめてしまっていた。

会いに行く時間は、贖罪の時間のように思えた。ほぼ成立しない会話、やっても喜んでくれているかわからない世話、苦しそうな顔と声をそばで感じること、それによってやってくる虚しさや悲しさを抑えてなるべく明るい声を出して励ました。病室をあとにするととたんに悲しく思ってしまうことを、止めることができなかった。マフラーをぐるぐるに巻いて自転車に乗って、暗くて顔が見えないのをいいことに泣いて帰ったりした。自意識過剰なので、病院帰りに泣くなんて過剰にドラマチックな反応しやがって、と思ってイライラもした。

それでも、日本に帰っているあいだ、欠かさず祖母に会いに行った。それがすべての目的だったから、祖母に会うことを中心に人生を回した。思えばとても贅沢な時間だったけれど、それでも病院に行くと生気を吸い取られるようで、面会時間はたった数時間だったけれどとても長く重苦しいものだった。祖母はいつも、苦しそうに顔をしかめていて、体をこわばらせ、私たちが体や顔を拭くことを嫌がった。

会話が成立しない。私のことをきちんと、自分の長女の次女であることを認識してくれているかすら確認ができない。そのことを毎日恨めしく悲しく苛立たしく思って過ごした。いろいろなひとから、慰めの言葉をもらった。「きっと喜んではるよ」と。そう願うほかなかったが、もはや知る由もなかった。

目の前にいるのは大好きな祖母であり、しかしもう在りし日の祖母はすでにそこにはいなかった。伝わっているかわからない愛情を示すことが虚しくも思えたが、これまでに注いでもらった愛情を残りの時間でできるだけ返したいというほとんど自己満足のような動機をもってしてできる限りのことを尽くした。

ときどき調子がいい時は、一言だけ会話が噛み合うようなことがあったが、それ以外はほとんどこちらの解釈ありきで意味を持たせなければならなかった。

顔をしかめる祖母をみて、母は「今の状況が受け入れられずにいてかわいそう、ほんまはもっと生きたいていうてはるわ。」と言い、母の妹は「もうこんな風にいろいろ繋がれて生きていくことが辛いんやわ。もう楽にしてあげたい。」と言った。わたしはただ、祖母がいまその瞬間にされていることに対して不快さを示しているだけで、特にその先の展開に何かしらの意思を示しているわけではないだろうと思った。

意思の確認ができない人を目の前にして、ひとつの仕草をとってしてもこれだけ違う解釈が生まれることを少し恐ろしく思った。

正解はわからず、ただ、それぞれがやりたいこととできることをできる限りやって、担当医の判断に身を任せてただ時が経つのを見守った。

私が帰国してひと月半が経とうとしていたころ、急遽転院が決まった。絶食が続いており点滴に頼っていたが、調子が少しよくなった時に経口で薬を摂取したところその薬が肺に入って肺炎になってしまったという。調子が良くなって施した処置によって状況が悪くなってしまうなんてあんまりだ、と思った。あとから医者の友達に話をしたら「典型的なパターンや」と言っていて、死ぬことにはパターンがあるのか、と思うと少し気が楽になった。

すべてのことに意味を持たせてしまうくせがついていて、ひとつひとつの事象をひとつたりともこぼすまいと目を凝らしつづけていたし、毎日意味について考えすぎていた。ただそれを言葉にすることはしなかった。ただ現象を捉えているだけで、言葉に書きおこすことは恐ろしすぎて向き合うことができなかった。確実にやってくる死について、向き合っているふりをしていたけれど、それについてまとめて言葉にすることから逃げてしまっていた。

 

転院してからは、予断をゆるさぬ状況となり、母は毎晩祖母に付き添って病室に寝泊まりをした。私も夜更けまでそばにいたし、誰かが言い出して取り決めたわけではないけれど、なるべく間を開けぬようにローテーションを組んで必ず一人は祖母のそばにいるようにしていた。病院泊が三日続いてわれわれの疲労が色濃くなったころ、担当医が「投与した薬が効いた、思いの外効いてしまったとも言える。自然の流れに沿った治療というのが難しくなるかもしれない」というようなことを言った。

わたしはもう何もわからなくなった。点滴を外すとすぐにでも死ぬような状態がもはや自然に沿った命のあり方であるのか、ずいぶん前からわからなくなっていたが、さらに意味がわからなくなった。治療をして命をこの世につなぎとめることの意味、その線引きを私たち家族は託されたのである。担当医は「今は容体が安定しているのでいま家に帰って休んでも大丈夫、また明日以降に話しましょう」と言った。

私たちは混乱しながらも、その言葉に従った。

その日母は「初めてぐっすり寝た」と言った。私もうまく体に力が入らず、頭も回らなかった。身体が重く、布団にこもってオランダにいる恋人に電話をして、今の状況がつらいことを伝えた。しばらくは緊張しなくてもいい、と思うと力が抜けてしまい、私がだらだらと布団にいることを誰も責めなかった。午後までだれも病院に行かなかった。

2時すぎに病院に行くと、祖母の目はあらぬ方向を向いていて、血圧も測れないほどに弱っていた。家族を呼んでください、と言われたがなお、それが祖母が去ることを意味しているということに気づかなかった。なんとか間に合った母と私に見守られて、祖母はどんどん機能を弱らせていった。最後に大きく二回息を吸い込んで、そのあとじっと動かなくなってしまった。看護師は目を合わせてくれなかった。

指先に取り付けられた心拍数や酸素濃度を管理する機械は音も鳴らなかった。「血中の酸素濃度が90以上であるように目を配ってあげてください」と看護師に言われて絶えず見守っていた画面には、祖母の死亡が伝えられたあとも良好な数値が表示されたままだった。それに腹が立った。私はいつも何を睨んで恐れていたのか、生死を数値で見分けようとしてしまっていたことをすごく恥ずかしく思った。医師とはいえ他人の判断した「大丈夫」という判断に完全に安心しきって乗っかったことを激しく後悔した。自分のせいで母以外は祖母の死に目に間に合わなかった、と思った。それは違うと言わせてしまうだろうから、誰にも言わなかった。

母は祖母の死亡が告げられるとすぐに誰かに電話して、普段のしっちゃかめっちゃかな性格からは信じられないほどしっかりとした様子で葬儀の手はずを進めた。病院にある「家族待合室」という奇妙な場所で待たされた。味気のない部屋にソファとシンクと棚が備え付けられていて、家族そろってそこでボーッとした。悲しいというよりも、ただ呆然として、時々涙が流れるのをときどき慰めあった。悲しみよりも、むなしいのと、信じられないのと、信じたくないのと、考えるのをやめたいのとでいっぱいいっぱいだった。一月以上、このときを迎える準備をしていたつもりだったが、思ったよりも空虚だったし、戸惑いと混乱があった。

 

救いもあった。

祖母が去ってしまう数日前のことだった。いつものように、反応がかえってくることは期待せず、しかし聞こえていることを願いながら話しかけた。「いろいろ尽くしたいと思うのは、これまでおばあちゃんが私たちにいっぱいええことしてくれたからやねんで」みたいなことを言った。「あんた、ええこと言うなあ」と祖母がしみじみと、はっきりした声で答えた。驚いて「おばあちゃん聞こえてるやんか」と言ったけれど、そのあと会話が成り立つことはなかった。自分たちで解釈をしなくても意味がのみ込める言葉を、この会話でもらえたことは救いだった。それが最後の会話になった。

 大事な人が去ること、それと向き合う心の機微を感じ続けた。巻き起こる感情がすべていつもよりもでかくなって嬉しさも悲しさもさみしさも怒りもすべて自分のいれものに入りきらない大きさでやってきて、上下動が大きすぎてしんどかった。とても一人ではどうにもできない状況だったし、自分が大事に思っている人によって救われたかった。

9月に父親を亡くした人、年始に祖父を亡くした人、そして医者として日々ひとの生死に向き合っている人がそれぞれ親しい友人にいたので、ずいぶん助けてもらった。身近な死を経験したことがない人は、私の悲しみを理解することができないからと、そうそうに噤んでしまった。誰かが死ぬことについて、それを経験していない自分には語る権利がないと思う人が少なからずいることを知った。

亡くなった人と自分との距離感というのも、他人から想像できるものではなく、死の意味もそれぞれ全く違っているのだから、たとえそういう経験をまだしていなくとも何も問題はないのに、当時はそれをものすごく冷たいことだと思った。かける言葉がわからないというのも当然だし、一つの敬い方だと今なら思える。それでも、何かしら言葉をかけてほしくてたまらなかった。無言を敬う余裕が当時本当になかった。とても、反省している。

同じように悲しくなってほしいとは当然思っていなかったが、自分がいまとても悲しい状態であることは把握してもらいたかったし、それに何かしらの方法で対処してほしいと期待をしていた。それをお願いしても許してくれるんじゃないかと思える人にだけ、祖母の逝去を伝えたが、思ったような反応をしてくれない人もいてそれに傷ついたりしたし、勝手に期待してしまったことを申し訳なくも思った。

亡くなった親しい人との思い出や向き合い方をそっと教えてくれる人もいた。まだ顔を見たことがない私に優しく励ましの言葉を送ってくれる人もいた。家族に打ち明けられない気持ちを吐露させてもらえる場所があったことを心からありがたく思う。

人生のなかで避けては通れない大きな悲しみを抱いた経験が、また誰かの悲しみに寄り添うためのやさしさになることを、尊く思った。

親い人がこの世を去ることを経験してしまった今では、もうそうでなかった頃、どうやって寄り添おうとしていたか無責任なことだが思い出せない。大事な人の大事な人のために、どうにかして心を注ぐなんてことは全くできていなかったと思う。それなのに自分の大事な人が亡くなったとたんに、大事に扱ってくれと暴れまわって本当にたちがわるい。これからは少なからずこの喪失を知るひととして、別れること自体も、それに直面した人が別れをどう扱おうとしているのかも、ともに慈しめるようになりたい。

 

 

今年の1月で、友人が亡くなって3年になった。いまだ、何をもってして受け入れるというのかがわからない。その人とは2ヶ月に一回かそれよりも少ない頻度で会っていて、二人で出かけることも何度かあって、いまでもその人を含めたLINEのグループで友達と会話をしている。もう会えない存在になってしまったことについて、いまだ実感がない。その友人を思って涙を流すことがなかなか難しくなってきたし、思い出が遠くなっていく。薄くはならないけれど、とにかく遠くなっていく感じがする。近くになってほしいのでまた、みんなでその人について話をしたり、懐かしい場所を訪ねたりしたい。

 

祖母について、すでにその「遠くなる」感じというのは2年前から始まっていた。初めて日本を離れ一年経って帰国したとき、祖母はもうそれまでの祖母ではなくなっていて、私はそれを受け入れることができなかった。誰よりもはつらつと明るかった祖母がヨボヨボになってうまく話もできずベッドの上で苦しんでいるとき、その姿をただ見守ることしかできなかった。弱った祖母をそれまでの祖母と同じ人として感じることが私にはできていただろうか。自分がそうあってほしいと願う姿しかその人のことを受け入れられないとしたら、本当に勝手で冷たい非道な人間だと思う。最後の時間はそういうことをいつも考えていた。自分を受け入れてくれているのか分からず何をすべきか判断のしようがなくて、思い出にすがってその姿を大切にしようとした。行為としてはもちろん、大事にしていたとは思うが、果たして心の部分はどうだったのかと問われたら、少し目をそらしてしまう。

祖母が亡くなってからのほうが、元気だった頃のことを色濃く思い出すことができるし、家族と思い出話をすることが増えた。そうしていると、小さな焚き火を囲んで話しているような、原始的なあたたかさと安心が胸に灯ることがある。それを後ろめたく思う気持ちもある。弱ってしまって機能を少しずつ失っていっていようとも、それは祖母であることに変わりはなかった。そのことから目をそらしているような気持ちになる。

 

生命機能が動き続けている限り、生きていると言えるんだろうか。そのことについてばかり考えた。私の寿命が尽きるのがいつだかもちろん知る由もないが、そばにいる人たちとそのことをたくさん話しておきたいし、死についてもう少し気をらくにして話すことをしてゆきたい。

解釈をせずとも意味をそのまま受け取れることの禍福を、なまなましく生きてるうちにできる限り噛みしめたい。

 

まとまりませんけども、とりあえず筆をおきます