結露するまえのこと 1

気づけばあっという間に時間がすぎている。まあそんなものだけど。

2017年の11月のあたまに、家族から「祖母が危ないから帰ってきてくれ」と連絡があった。2016年の9月に日本を離れてから、一度も日本に戻っていなかったわたしにとってそれはある種いつもの連絡だった。家族と離れて暮らしながらも安穏を得るため、ある程度スイッチを切っていたので「あと3週間でやらなければいけないことが終わるからそのあと帰る」と答えると、多分それを待っているともうあなたはおばあちゃんに会えないよ返事がきた。

そのとき、自分のこれまでしてきたことがとても残酷だったことに気づき、嘆き、阿保のように大泣きしながら母に電話をかけ返した。すぐさまに日本に帰ることができるフライトをしゃくりあげながら探した。夏から申請している滞在許可がまだ降りていないために、今いる国を離れるにはまず移民局に行って今の自分の滞在状況を証明する書類を発行してもらう必要があった。ゆえに、一番早くにとれる便は電話をもらった三日後ということになった。

それからの三日間はひたすら帰ることだけに集中して、移民局に走り、周囲に連絡をして帰る旨を伝えた。他に何を考えてどう生活をしていたのか記憶がない。急いた気持ちを抱いて過ごすに、三日はあまりにも長かった。もうそのまま日本に帰ることができるように、部屋の荷物をすべてまとめ、抱えられるだけ抱えて飛行機に乗った。

ドイツのフランクフルト経由で関西空港へ向かう。たのむ、間に合ってくれと念じ続けた道のりだった。誰かのためにこれほど心を注ぎ続けることを長らくしていなかったような気がする。どんなに慌てても帰る時間は変わらないのに、飛行機に乗るまでに気をはりすぎたせいでかなり疲れていた。気を紛らわすためにフランクフルトで勧めてもらった映画をレンタルしたのに、冒頭3秒も見ない間に寝てしまってそのあとその映画のことを思い出すことは一度もなく、未視聴リストから知らないうちに消えていた。ともかくこうして関西空港に降り立った。

関西空港から乗ったリムジンバスは、抜けるような晴天の大阪湾沿いを走った。左手にずっと海が見えて、きらきらと光っていた。右手には、異国からの観光客が姦しくおしゃべりをしていて、その向こうに青い山の端が見えた。11月の頭にしてはかなり暖かい昼下がり、あまりに気持ちよくて、それまでの焦燥感や陰鬱とした気持ちをしばし忘れた。北欧に暮らすことで一年以上浴びることのなかった強い日差しを、関空からの道のりで存分に取り込んで元気になったのかもしれない、京都に着くころにはいくらか気持ちが落ち着いて、旅の疲れと懐かしさに身を浸していた。

リムジンバスは私を京都駅の八条口で下ろした。1年前、まったく同じ場所から出発した時とはずいぶん様相が変わっていて、しばらくうろうろしたがタクシー乗り場を見つけることができず、流しのタクシーも全然止まってくれないので、かさばる二つの巨大なカバンを抱えて市バスに乗ることにした。誰も助けてくれやしない。こんなにボロボロなんだから手を貸してくれ目を開けバカやろうども、とか思った。バス停のまわりには人がおらず、助けを求める相手がそもそもいなかった。しかも、カバンはめちゃくちゃ重くて身体は疲れ切っているのに、驚くほどひょいと持ち運べる。誰かに心配されたくて労られたくてたまらないのに、なぜか簡単に運べてしまう重い荷物を担いでかなりスムーズに移動できてしまう。自分の丈夫さに辟易した。

しばらく乗っていなかったからその系統のバスに乗るととんでもなく遠回りになることを、乗ってから思い出した。日当たりのよい座席に腰掛けながら、一年以上前、日本を離れる直前に母が渡してくれた京都銀行の紙袋に入った現金を撫でた。こんなに本気で貨幣を作っている国もそうそうないな…とヘラヘラしたり、いまから出国する娘に日本円を渡す母の憎めぬかわいらしさをいとしく思ったり、京都銀行の袋を財布として使うのも悪くないなとか思って袋の写真を撮ったりした。

乗ったバスはそもそも人気のない路線で、さらに平日の昼間ということもあって私以外におばあちゃん二人しか客がいなかった。おばあちゃんたちの会話が聞こえてくる。察するに、親しい友達というわけではなく、おそらく通っている医者か何かが同じでときどき帰る方向が一緒で話すことがある、くらいの距離感だった。のっしりした、お年寄りの京都弁で、でもハキハキと会話している。(知らない人の会話に耳をそばだててごめんなさい、日本を離れて戻ってくると、まったく知らない人の会話がよく聞こえてしまう)

おばあちゃんが聞いた。「そういえばおたくのご主人おげんき「死にました」間髪いれずにもう一人のおばあちゃんがあっけらかんと答えた。質問したおばあちゃんは慣れた様子で「そうですか」と答えて、そのあと二人とも淡々と会話を続けていた。日本に帰ってきてよかった、これこれ、これだよ…と思った。何がこれこれ、なのか未だ正体をつきつめられていないけれど、この会話を聞いたときに強くそう思った。

家に帰ると、母から「あんたえらい早かったなー」と京都の洗礼を受ける。京都駅に着いてから遠回りのバスに乗ってしまったせいでずいぶん待たせてしまったので「遅かったな」と少し文句を言いたかったらしいが、素直にそう言えばいいものを、京都に生まれ育って60うん年の母はこういう言い回しをする。家帰ってきたなー、と思った。

家に帰るまでのことを詳細にかきすぎて、本当は大事な人が去ることについての心の機微をまとめたいのに、なかなかたどり着けない。

帰路について詳細に覚えているのは、それだけ自分の気持ちを切り替えるのに多大な効果をもたらしたからだろう。陰鬱な北欧での1年と少し。2016年も17年も、冷夏だったので1日たりともTシャツ一枚で過ごすことがなかった。雪も降らず、反射をまぶしく思うこともなかった。日光に長らく飢えていて、それが余計に鬱屈とした気持ちを助長していた。

晴れた道のりで私はそういう鬱屈さを虫干しするのに成功したのではないか。帰ることばかり考えてぐしゃぐしゃだったはずなのに、こんなにも家への道のりのことをありありと思い浮かべることができるのはつまりそういうことかもしれない。

こうしてわたしは祖母に会う準備をととのえることができたと思う。

長くなるといやなのでとりあえず、日本に帰ることになった経緯から祖母に会うまでの時間の説明でいったん筆をおくことにします

 

後半へつづく