日が当たると四股をふむひと

日照時間が長くなった。

日が当たらないと人間はつらくなる、というのを、大学一年生のときに京都から金沢に引っ越して初めて知った。金沢の人のいう「晴れ」とは「空から水が降ってこないこと」を指し、つまるところそれはわたしにとっての曇りだった。曇天。一面の曇天。灰色の空。少しでも落ち込むとそこにさらにじっとりと染みこんでつめたくまとわりつく曇りの重さになかなか慣れることができず、その取り扱いにかなり苦労した。

そんな日々を四年も過ごすと、「ただ日が当たること」のありがたみが増す。

東京の、天窓がある家に引っ越したのである。わたしは天窓の真下にふとんを敷き、朝晴れのよろこびを毎日かみしめた。雨がふっても曇っても平気だった。なんせよく晴れるからたまの雨や曇りもわるくないと思えた。

起きたときにちょうど自分の顔に日が差すように、布団の位置を季節ごとに調整していた。まぶしくて起きる。うれしい。跳ねるように布団から飛び出すことができた。それが東京で暮らしていて一番うれしかったことだった。朝が来ることが嬉しくて、朝型になった。

時を経ていまはコペンハーゲンに住んでいる。

金沢にいたときも同じことを思ったが、長い期間日が当たらないと人間はとても繊細に内向的になることを、この北の国に引っ越してきてよくよく痛感した。冬は、よく見知った仲で小さくあつまり、いたわり、いつくしみあう季節だ。あたたかい暖炉、これは比喩なのでたとえば食卓を囲む場所と、友人たちがいれば死なない。

ときどき一人きりになりたくてたまらない人にとっては、さんざんひきこもっておいてから「寒いので火にあたらせてくれ」と言うのはなかなかつらいものがあるが、それでも輪に入れてくれるあたたかなひとたちのおかげで越冬することができた。わたしはいつか自分のほこらに持って帰ったちいさな薪に火を灯して、誰かをあたためることができるんだろか。いまは自分でいっぱいいっぱいなのではっきり言って無理だけど、遠くないうち、できるようになりたい。

さて四月のあたまごろ、2週間ぶりに太陽が出て、いきなり春がおとずれたかのような日があった。おとずれたかのような、と書くのは、この日のあとまた一月ほどあの日のことはうそでしたって嘲るような小寒い日々がつづいたからだ。

ともかくその日曜日、日光にいざなわれてひろい芝生のある公園に行き、うかれてりんごのお酒を二本飲み、嬉しくなって靴下をぬいで四股を踏んだ。一緒にいた友達はこまった顔しながら笑っていた。

ともかく四股をふまずにはいられなかった。冷たい土、湿った草、晴れ。春だ。

晴れるととりあえず機嫌がよくなる。晴れるとうれしい。これにつきる。

曇りがつづく中にしあわせを見出すことがなかなかできない。

遠くの人を想い、だれにも会いたくなくなり、かなしくてさみしくて床に溶けそうになるし、色彩をうばう白っぽい空を趣として楽しむ余裕がまだない。晴れる日のことを思って、その日のために力を蓄える時間だと思いし強かに準備を進めるだけが曇りの日のつとめになる。晴れた日に曇りの日々のこと思い返すとじつはおもいがけないうつくしさを見つけられたりして興味深い。その瞬間のために苦汁をなめてると思お。

晴れた日におもいきり自転車で走ったときになびいた髪の毛がしゃらんしゃらん鳴ること、冷たい土と草のうえで四股をふめる脚でいること、のびやかなシャツを着れるからだでいること、日当たりのいい壁に貼る絵をかくこと、などに充てる。

くもりをもっとそれなりに味わう方法を身につけたらこの国でどれだけ心地よくすごすことができるんだろうとはおもうんだけど、窓の大きい場所でコーヒーを飲んでため息をふかすほか、少し古いよしもと新喜劇をみてニヤニヤするくらいしかしていないので、いまのところそれは難しい。

くもりを味わい深くゆたかに過ごす方法があったらぜひに知りたい。

このごろは小説ではなく、エッセイや随筆などが読みたい。ノンフィクションがよい。それまで全く見たことがなかったキューブリックのドキュメンタリーを見に行ったり、(そのために映画を何本か見たし、2001年宇宙の旅が思った以上にわからなくて映画評論家の町山智浩さんが解説している動画も付随して何本か見た、これはオバカ映画をなんども繰り返し見ることしかできない自分にとって特記すべき事項なので書く)スウェーデンの映像作家が撮った日本建築が北欧建築に及ぼした影響についての映画なんかも見た。それはすごくつまらなかった。巨匠vs巨匠だったのでまったく親身な感動がなかった。うまれた疑問に対してどうアプローチしているのか?そもそもなんでその疑問をいだいたのか?など実在する人物とその成果とを照らしあわせてなにかしら合点を得たい。などとおもっているのでなるべくノンフィクションがよいのである。

これは今読んでいる本

2008年08月号 『科学の扉をノックする』小川洋子 | ダ・ヴィンチニュース

 

今日は晴れたので、湖のそばの小さい丘にねっころがったり直射日光のあたるカフェにいって目がいたくなるくらい太陽のほうをみていた。

日光には貪欲だが日焼け防止には余念がないのでSPF50+の日焼け止めをなんども塗り直していたら、友達に「君はまた50+の製品つかってるの」と笑われた。冬、体調を崩していたときに住まわせてもらっている家の人に分けてもらったサプリが50歳以上向けで、瓶に「50+」と書いてあったのをその友達は目ざとく覚えていた。

ちがうこれは年齢の50+じゃない、日焼け止めには強さのレベルがあって…と説明したけどもう何歳でもいいよ、なんでもいいよ、とりあえず冬を超えてわたしは別の50+を欲するからだになった。 

人にまた瓶のフタをあけてもらってりんごのお酒をのんだ。

きょう四股は踏めていない。春はまたくるという油断。

春が来た。日が長い。