結露するまえのこと 2

病院は、家から自転車で10分ほどのところにあった。

1年とすこしぶりの再会に祖母が喜んでくれるに違いないと期待をしていたが、祖母は私を認識しているのかよくわからない反応を示すにとどまった。意識はあるにはあるのだけれど、誰だかわからないようだった。

春に、祖母と祖父を描いた絵はがきを送ったとき、ふたりして「これは誰からや」と言っていたと母から聞かされてショックを受け、怒りすら覚えたことがあった。怒りを覚えたことに傷つきもした。老いに向き合うほどに悲しくて苛立ってしまうのがいやになって、私はそのことについて考えることを、その時からやめてしまっていた。

会いに行く時間は、贖罪の時間のように思えた。ほぼ成立しない会話、やっても喜んでくれているかわからない世話、苦しそうな顔と声をそばで感じること、それによってやってくる虚しさや悲しさを抑えてなるべく明るい声を出して励ました。病室をあとにするととたんに悲しく思ってしまうことを、止めることができなかった。マフラーをぐるぐるに巻いて自転車に乗って、暗くて顔が見えないのをいいことに泣いて帰ったりした。自意識過剰なので、病院帰りに泣くなんて過剰にドラマチックな反応しやがって、と思ってイライラもした。

それでも、日本に帰っているあいだ、欠かさず祖母に会いに行った。それがすべての目的だったから、祖母に会うことを中心に人生を回した。思えばとても贅沢な時間だったけれど、それでも病院に行くと生気を吸い取られるようで、面会時間はたった数時間だったけれどとても長く重苦しいものだった。祖母はいつも、苦しそうに顔をしかめていて、体をこわばらせ、私たちが体や顔を拭くことを嫌がった。

会話が成立しない。私のことをきちんと、自分の長女の次女であることを認識してくれているかすら確認ができない。そのことを毎日恨めしく悲しく苛立たしく思って過ごした。いろいろなひとから、慰めの言葉をもらった。「きっと喜んではるよ」と。そう願うほかなかったが、もはや知る由もなかった。

目の前にいるのは大好きな祖母であり、しかしもう在りし日の祖母はすでにそこにはいなかった。伝わっているかわからない愛情を示すことが虚しくも思えたが、これまでに注いでもらった愛情を残りの時間でできるだけ返したいというほとんど自己満足のような動機をもってしてできる限りのことを尽くした。

ときどき調子がいい時は、一言だけ会話が噛み合うようなことがあったが、それ以外はほとんどこちらの解釈ありきで意味を持たせなければならなかった。

顔をしかめる祖母をみて、母は「今の状況が受け入れられずにいてかわいそう、ほんまはもっと生きたいていうてはるわ。」と言い、母の妹は「もうこんな風にいろいろ繋がれて生きていくことが辛いんやわ。もう楽にしてあげたい。」と言った。わたしはただ、祖母がいまその瞬間にされていることに対して不快さを示しているだけで、特にその先の展開に何かしらの意思を示しているわけではないだろうと思った。

意思の確認ができない人を目の前にして、ひとつの仕草をとってしてもこれだけ違う解釈が生まれることを少し恐ろしく思った。

正解はわからず、ただ、それぞれがやりたいこととできることをできる限りやって、担当医の判断に身を任せてただ時が経つのを見守った。

私が帰国してひと月半が経とうとしていたころ、急遽転院が決まった。絶食が続いており点滴に頼っていたが、調子が少しよくなった時に経口で薬を摂取したところその薬が肺に入って肺炎になってしまったという。調子が良くなって施した処置によって状況が悪くなってしまうなんてあんまりだ、と思った。あとから医者の友達に話をしたら「典型的なパターンや」と言っていて、死ぬことにはパターンがあるのか、と思うと少し気が楽になった。

すべてのことに意味を持たせてしまうくせがついていて、ひとつひとつの事象をひとつたりともこぼすまいと目を凝らしつづけていたし、毎日意味について考えすぎていた。ただそれを言葉にすることはしなかった。ただ現象を捉えているだけで、言葉に書きおこすことは恐ろしすぎて向き合うことができなかった。確実にやってくる死について、向き合っているふりをしていたけれど、それについてまとめて言葉にすることから逃げてしまっていた。

 

転院してからは、予断をゆるさぬ状況となり、母は毎晩祖母に付き添って病室に寝泊まりをした。私も夜更けまでそばにいたし、誰かが言い出して取り決めたわけではないけれど、なるべく間を開けぬようにローテーションを組んで必ず一人は祖母のそばにいるようにしていた。病院泊が三日続いてわれわれの疲労が色濃くなったころ、担当医が「投与した薬が効いた、思いの外効いてしまったとも言える。自然の流れに沿った治療というのが難しくなるかもしれない」というようなことを言った。

わたしはもう何もわからなくなった。点滴を外すとすぐにでも死ぬような状態がもはや自然に沿った命のあり方であるのか、ずいぶん前からわからなくなっていたが、さらに意味がわからなくなった。治療をして命をこの世につなぎとめることの意味、その線引きを私たち家族は託されたのである。担当医は「今は容体が安定しているのでいま家に帰って休んでも大丈夫、また明日以降に話しましょう」と言った。

私たちは混乱しながらも、その言葉に従った。

その日母は「初めてぐっすり寝た」と言った。私もうまく体に力が入らず、頭も回らなかった。身体が重く、布団にこもってオランダにいる恋人に電話をして、今の状況がつらいことを伝えた。しばらくは緊張しなくてもいい、と思うと力が抜けてしまい、私がだらだらと布団にいることを誰も責めなかった。午後までだれも病院に行かなかった。

2時すぎに病院に行くと、祖母の目はあらぬ方向を向いていて、血圧も測れないほどに弱っていた。家族を呼んでください、と言われたがなお、それが祖母が去ることを意味しているということに気づかなかった。なんとか間に合った母と私に見守られて、祖母はどんどん機能を弱らせていった。最後に大きく二回息を吸い込んで、そのあとじっと動かなくなってしまった。看護師は目を合わせてくれなかった。

指先に取り付けられた心拍数や酸素濃度を管理する機械は音も鳴らなかった。「血中の酸素濃度が90以上であるように目を配ってあげてください」と看護師に言われて絶えず見守っていた画面には、祖母の死亡が伝えられたあとも良好な数値が表示されたままだった。それに腹が立った。私はいつも何を睨んで恐れていたのか、生死を数値で見分けようとしてしまっていたことをすごく恥ずかしく思った。医師とはいえ他人の判断した「大丈夫」という判断に完全に安心しきって乗っかったことを激しく後悔した。自分のせいで母以外は祖母の死に目に間に合わなかった、と思った。それは違うと言わせてしまうだろうから、誰にも言わなかった。

母は祖母の死亡が告げられるとすぐに誰かに電話して、普段のしっちゃかめっちゃかな性格からは信じられないほどしっかりとした様子で葬儀の手はずを進めた。病院にある「家族待合室」という奇妙な場所で待たされた。味気のない部屋にソファとシンクと棚が備え付けられていて、家族そろってそこでボーッとした。悲しいというよりも、ただ呆然として、時々涙が流れるのをときどき慰めあった。悲しみよりも、むなしいのと、信じられないのと、信じたくないのと、考えるのをやめたいのとでいっぱいいっぱいだった。一月以上、このときを迎える準備をしていたつもりだったが、思ったよりも空虚だったし、戸惑いと混乱があった。

 

救いもあった。

祖母が去ってしまう数日前のことだった。いつものように、反応がかえってくることは期待せず、しかし聞こえていることを願いながら話しかけた。「いろいろ尽くしたいと思うのは、これまでおばあちゃんが私たちにいっぱいええことしてくれたからやねんで」みたいなことを言った。「あんた、ええこと言うなあ」と祖母がしみじみと、はっきりした声で答えた。驚いて「おばあちゃん聞こえてるやんか」と言ったけれど、そのあと会話が成り立つことはなかった。自分たちで解釈をしなくても意味がのみ込める言葉を、この会話でもらえたことは救いだった。それが最後の会話になった。

 大事な人が去ること、それと向き合う心の機微を感じ続けた。巻き起こる感情がすべていつもよりもでかくなって嬉しさも悲しさもさみしさも怒りもすべて自分のいれものに入りきらない大きさでやってきて、上下動が大きすぎてしんどかった。とても一人ではどうにもできない状況だったし、自分が大事に思っている人によって救われたかった。

9月に父親を亡くした人、年始に祖父を亡くした人、そして医者として日々ひとの生死に向き合っている人がそれぞれ親しい友人にいたので、ずいぶん助けてもらった。身近な死を経験したことがない人は、私の悲しみを理解することができないからと、そうそうに噤んでしまった。誰かが死ぬことについて、それを経験していない自分には語る権利がないと思う人が少なからずいることを知った。

亡くなった人と自分との距離感というのも、他人から想像できるものではなく、死の意味もそれぞれ全く違っているのだから、たとえそういう経験をまだしていなくとも何も問題はないのに、当時はそれをものすごく冷たいことだと思った。かける言葉がわからないというのも当然だし、一つの敬い方だと今なら思える。それでも、何かしら言葉をかけてほしくてたまらなかった。無言を敬う余裕が当時本当になかった。とても、反省している。

同じように悲しくなってほしいとは当然思っていなかったが、自分がいまとても悲しい状態であることは把握してもらいたかったし、それに何かしらの方法で対処してほしいと期待をしていた。それをお願いしても許してくれるんじゃないかと思える人にだけ、祖母の逝去を伝えたが、思ったような反応をしてくれない人もいてそれに傷ついたりしたし、勝手に期待してしまったことを申し訳なくも思った。

亡くなった親しい人との思い出や向き合い方をそっと教えてくれる人もいた。まだ顔を見たことがない私に優しく励ましの言葉を送ってくれる人もいた。家族に打ち明けられない気持ちを吐露させてもらえる場所があったことを心からありがたく思う。

人生のなかで避けては通れない大きな悲しみを抱いた経験が、また誰かの悲しみに寄り添うためのやさしさになることを、尊く思った。

親い人がこの世を去ることを経験してしまった今では、もうそうでなかった頃、どうやって寄り添おうとしていたか無責任なことだが思い出せない。大事な人の大事な人のために、どうにかして心を注ぐなんてことは全くできていなかったと思う。それなのに自分の大事な人が亡くなったとたんに、大事に扱ってくれと暴れまわって本当にたちがわるい。これからは少なからずこの喪失を知るひととして、別れること自体も、それに直面した人が別れをどう扱おうとしているのかも、ともに慈しめるようになりたい。

 

 

今年の1月で、友人が亡くなって3年になった。いまだ、何をもってして受け入れるというのかがわからない。その人とは2ヶ月に一回かそれよりも少ない頻度で会っていて、二人で出かけることも何度かあって、いまでもその人を含めたLINEのグループで友達と会話をしている。もう会えない存在になってしまったことについて、いまだ実感がない。その友人を思って涙を流すことがなかなか難しくなってきたし、思い出が遠くなっていく。薄くはならないけれど、とにかく遠くなっていく感じがする。近くになってほしいのでまた、みんなでその人について話をしたり、懐かしい場所を訪ねたりしたい。

 

祖母について、すでにその「遠くなる」感じというのは2年前から始まっていた。初めて日本を離れ一年経って帰国したとき、祖母はもうそれまでの祖母ではなくなっていて、私はそれを受け入れることができなかった。誰よりもはつらつと明るかった祖母がヨボヨボになってうまく話もできずベッドの上で苦しんでいるとき、その姿をただ見守ることしかできなかった。弱った祖母をそれまでの祖母と同じ人として感じることが私にはできていただろうか。自分がそうあってほしいと願う姿しかその人のことを受け入れられないとしたら、本当に勝手で冷たい非道な人間だと思う。最後の時間はそういうことをいつも考えていた。自分を受け入れてくれているのか分からず何をすべきか判断のしようがなくて、思い出にすがってその姿を大切にしようとした。行為としてはもちろん、大事にしていたとは思うが、果たして心の部分はどうだったのかと問われたら、少し目をそらしてしまう。

祖母が亡くなってからのほうが、元気だった頃のことを色濃く思い出すことができるし、家族と思い出話をすることが増えた。そうしていると、小さな焚き火を囲んで話しているような、原始的なあたたかさと安心が胸に灯ることがある。それを後ろめたく思う気持ちもある。弱ってしまって機能を少しずつ失っていっていようとも、それは祖母であることに変わりはなかった。そのことから目をそらしているような気持ちになる。

 

生命機能が動き続けている限り、生きていると言えるんだろうか。そのことについてばかり考えた。私の寿命が尽きるのがいつだかもちろん知る由もないが、そばにいる人たちとそのことをたくさん話しておきたいし、死についてもう少し気をらくにして話すことをしてゆきたい。

解釈をせずとも意味をそのまま受け取れることの禍福を、なまなましく生きてるうちにできる限り噛みしめたい。

 

まとまりませんけども、とりあえず筆をおきます

 

 

 

 

結露するまえのこと 1

気づけばあっという間に時間がすぎている。まあそんなものだけど。

2017年の11月のあたまに、家族から「祖母が危ないから帰ってきてくれ」と連絡があった。2016年の9月に日本を離れてから、一度も日本に戻っていなかったわたしにとってそれはある種いつもの連絡だった。家族と離れて暮らしながらも安穏を得るため、ある程度スイッチを切っていたので「あと3週間でやらなければいけないことが終わるからそのあと帰る」と答えると、多分それを待っているともうあなたはおばあちゃんに会えないよ返事がきた。

そのとき、自分のこれまでしてきたことがとても残酷だったことに気づき、嘆き、阿保のように大泣きしながら母に電話をかけ返した。すぐさまに日本に帰ることができるフライトをしゃくりあげながら探した。夏から申請している滞在許可がまだ降りていないために、今いる国を離れるにはまず移民局に行って今の自分の滞在状況を証明する書類を発行してもらう必要があった。ゆえに、一番早くにとれる便は電話をもらった三日後ということになった。

それからの三日間はひたすら帰ることだけに集中して、移民局に走り、周囲に連絡をして帰る旨を伝えた。他に何を考えてどう生活をしていたのか記憶がない。急いた気持ちを抱いて過ごすに、三日はあまりにも長かった。もうそのまま日本に帰ることができるように、部屋の荷物をすべてまとめ、抱えられるだけ抱えて飛行機に乗った。

ドイツのフランクフルト経由で関西空港へ向かう。たのむ、間に合ってくれと念じ続けた道のりだった。誰かのためにこれほど心を注ぎ続けることを長らくしていなかったような気がする。どんなに慌てても帰る時間は変わらないのに、飛行機に乗るまでに気をはりすぎたせいでかなり疲れていた。気を紛らわすためにフランクフルトで勧めてもらった映画をレンタルしたのに、冒頭3秒も見ない間に寝てしまってそのあとその映画のことを思い出すことは一度もなく、未視聴リストから知らないうちに消えていた。ともかくこうして関西空港に降り立った。

関西空港から乗ったリムジンバスは、抜けるような晴天の大阪湾沿いを走った。左手にずっと海が見えて、きらきらと光っていた。右手には、異国からの観光客が姦しくおしゃべりをしていて、その向こうに青い山の端が見えた。11月の頭にしてはかなり暖かい昼下がり、あまりに気持ちよくて、それまでの焦燥感や陰鬱とした気持ちをしばし忘れた。北欧に暮らすことで一年以上浴びることのなかった強い日差しを、関空からの道のりで存分に取り込んで元気になったのかもしれない、京都に着くころにはいくらか気持ちが落ち着いて、旅の疲れと懐かしさに身を浸していた。

リムジンバスは私を京都駅の八条口で下ろした。1年前、まったく同じ場所から出発した時とはずいぶん様相が変わっていて、しばらくうろうろしたがタクシー乗り場を見つけることができず、流しのタクシーも全然止まってくれないので、かさばる二つの巨大なカバンを抱えて市バスに乗ることにした。誰も助けてくれやしない。こんなにボロボロなんだから手を貸してくれ目を開けバカやろうども、とか思った。バス停のまわりには人がおらず、助けを求める相手がそもそもいなかった。しかも、カバンはめちゃくちゃ重くて身体は疲れ切っているのに、驚くほどひょいと持ち運べる。誰かに心配されたくて労られたくてたまらないのに、なぜか簡単に運べてしまう重い荷物を担いでかなりスムーズに移動できてしまう。自分の丈夫さに辟易した。

しばらく乗っていなかったからその系統のバスに乗るととんでもなく遠回りになることを、乗ってから思い出した。日当たりのよい座席に腰掛けながら、一年以上前、日本を離れる直前に母が渡してくれた京都銀行の紙袋に入った現金を撫でた。こんなに本気で貨幣を作っている国もそうそうないな…とヘラヘラしたり、いまから出国する娘に日本円を渡す母の憎めぬかわいらしさをいとしく思ったり、京都銀行の袋を財布として使うのも悪くないなとか思って袋の写真を撮ったりした。

乗ったバスはそもそも人気のない路線で、さらに平日の昼間ということもあって私以外におばあちゃん二人しか客がいなかった。おばあちゃんたちの会話が聞こえてくる。察するに、親しい友達というわけではなく、おそらく通っている医者か何かが同じでときどき帰る方向が一緒で話すことがある、くらいの距離感だった。のっしりした、お年寄りの京都弁で、でもハキハキと会話している。(知らない人の会話に耳をそばだててごめんなさい、日本を離れて戻ってくると、まったく知らない人の会話がよく聞こえてしまう)

おばあちゃんが聞いた。「そういえばおたくのご主人おげんき「死にました」間髪いれずにもう一人のおばあちゃんがあっけらかんと答えた。質問したおばあちゃんは慣れた様子で「そうですか」と答えて、そのあと二人とも淡々と会話を続けていた。日本に帰ってきてよかった、これこれ、これだよ…と思った。何がこれこれ、なのか未だ正体をつきつめられていないけれど、この会話を聞いたときに強くそう思った。

家に帰ると、母から「あんたえらい早かったなー」と京都の洗礼を受ける。京都駅に着いてから遠回りのバスに乗ってしまったせいでずいぶん待たせてしまったので「遅かったな」と少し文句を言いたかったらしいが、素直にそう言えばいいものを、京都に生まれ育って60うん年の母はこういう言い回しをする。家帰ってきたなー、と思った。

家に帰るまでのことを詳細にかきすぎて、本当は大事な人が去ることについての心の機微をまとめたいのに、なかなかたどり着けない。

帰路について詳細に覚えているのは、それだけ自分の気持ちを切り替えるのに多大な効果をもたらしたからだろう。陰鬱な北欧での1年と少し。2016年も17年も、冷夏だったので1日たりともTシャツ一枚で過ごすことがなかった。雪も降らず、反射をまぶしく思うこともなかった。日光に長らく飢えていて、それが余計に鬱屈とした気持ちを助長していた。

晴れた道のりで私はそういう鬱屈さを虫干しするのに成功したのではないか。帰ることばかり考えてぐしゃぐしゃだったはずなのに、こんなにも家への道のりのことをありありと思い浮かべることができるのはつまりそういうことかもしれない。

こうしてわたしは祖母に会う準備をととのえることができたと思う。

長くなるといやなのでとりあえず、日本に帰ることになった経緯から祖母に会うまでの時間の説明でいったん筆をおくことにします

 

後半へつづく

 

 

 

 

 

 

日が当たると四股をふむひと

日照時間が長くなった。

日が当たらないと人間はつらくなる、というのを、大学一年生のときに京都から金沢に引っ越して初めて知った。金沢の人のいう「晴れ」とは「空から水が降ってこないこと」を指し、つまるところそれはわたしにとっての曇りだった。曇天。一面の曇天。灰色の空。少しでも落ち込むとそこにさらにじっとりと染みこんでつめたくまとわりつく曇りの重さになかなか慣れることができず、その取り扱いにかなり苦労した。

そんな日々を四年も過ごすと、「ただ日が当たること」のありがたみが増す。

東京の、天窓がある家に引っ越したのである。わたしは天窓の真下にふとんを敷き、朝晴れのよろこびを毎日かみしめた。雨がふっても曇っても平気だった。なんせよく晴れるからたまの雨や曇りもわるくないと思えた。

起きたときにちょうど自分の顔に日が差すように、布団の位置を季節ごとに調整していた。まぶしくて起きる。うれしい。跳ねるように布団から飛び出すことができた。それが東京で暮らしていて一番うれしかったことだった。朝が来ることが嬉しくて、朝型になった。

時を経ていまはコペンハーゲンに住んでいる。

金沢にいたときも同じことを思ったが、長い期間日が当たらないと人間はとても繊細に内向的になることを、この北の国に引っ越してきてよくよく痛感した。冬は、よく見知った仲で小さくあつまり、いたわり、いつくしみあう季節だ。あたたかい暖炉、これは比喩なのでたとえば食卓を囲む場所と、友人たちがいれば死なない。

ときどき一人きりになりたくてたまらない人にとっては、さんざんひきこもっておいてから「寒いので火にあたらせてくれ」と言うのはなかなかつらいものがあるが、それでも輪に入れてくれるあたたかなひとたちのおかげで越冬することができた。わたしはいつか自分のほこらに持って帰ったちいさな薪に火を灯して、誰かをあたためることができるんだろか。いまは自分でいっぱいいっぱいなのではっきり言って無理だけど、遠くないうち、できるようになりたい。

さて四月のあたまごろ、2週間ぶりに太陽が出て、いきなり春がおとずれたかのような日があった。おとずれたかのような、と書くのは、この日のあとまた一月ほどあの日のことはうそでしたって嘲るような小寒い日々がつづいたからだ。

ともかくその日曜日、日光にいざなわれてひろい芝生のある公園に行き、うかれてりんごのお酒を二本飲み、嬉しくなって靴下をぬいで四股を踏んだ。一緒にいた友達はこまった顔しながら笑っていた。

ともかく四股をふまずにはいられなかった。冷たい土、湿った草、晴れ。春だ。

晴れるととりあえず機嫌がよくなる。晴れるとうれしい。これにつきる。

曇りがつづく中にしあわせを見出すことがなかなかできない。

遠くの人を想い、だれにも会いたくなくなり、かなしくてさみしくて床に溶けそうになるし、色彩をうばう白っぽい空を趣として楽しむ余裕がまだない。晴れる日のことを思って、その日のために力を蓄える時間だと思いし強かに準備を進めるだけが曇りの日のつとめになる。晴れた日に曇りの日々のこと思い返すとじつはおもいがけないうつくしさを見つけられたりして興味深い。その瞬間のために苦汁をなめてると思お。

晴れた日におもいきり自転車で走ったときになびいた髪の毛がしゃらんしゃらん鳴ること、冷たい土と草のうえで四股をふめる脚でいること、のびやかなシャツを着れるからだでいること、日当たりのいい壁に貼る絵をかくこと、などに充てる。

くもりをもっとそれなりに味わう方法を身につけたらこの国でどれだけ心地よくすごすことができるんだろうとはおもうんだけど、窓の大きい場所でコーヒーを飲んでため息をふかすほか、少し古いよしもと新喜劇をみてニヤニヤするくらいしかしていないので、いまのところそれは難しい。

くもりを味わい深くゆたかに過ごす方法があったらぜひに知りたい。

このごろは小説ではなく、エッセイや随筆などが読みたい。ノンフィクションがよい。それまで全く見たことがなかったキューブリックのドキュメンタリーを見に行ったり、(そのために映画を何本か見たし、2001年宇宙の旅が思った以上にわからなくて映画評論家の町山智浩さんが解説している動画も付随して何本か見た、これはオバカ映画をなんども繰り返し見ることしかできない自分にとって特記すべき事項なので書く)スウェーデンの映像作家が撮った日本建築が北欧建築に及ぼした影響についての映画なんかも見た。それはすごくつまらなかった。巨匠vs巨匠だったのでまったく親身な感動がなかった。うまれた疑問に対してどうアプローチしているのか?そもそもなんでその疑問をいだいたのか?など実在する人物とその成果とを照らしあわせてなにかしら合点を得たい。などとおもっているのでなるべくノンフィクションがよいのである。

これは今読んでいる本

2008年08月号 『科学の扉をノックする』小川洋子 | ダ・ヴィンチニュース

 

今日は晴れたので、湖のそばの小さい丘にねっころがったり直射日光のあたるカフェにいって目がいたくなるくらい太陽のほうをみていた。

日光には貪欲だが日焼け防止には余念がないのでSPF50+の日焼け止めをなんども塗り直していたら、友達に「君はまた50+の製品つかってるの」と笑われた。冬、体調を崩していたときに住まわせてもらっている家の人に分けてもらったサプリが50歳以上向けで、瓶に「50+」と書いてあったのをその友達は目ざとく覚えていた。

ちがうこれは年齢の50+じゃない、日焼け止めには強さのレベルがあって…と説明したけどもう何歳でもいいよ、なんでもいいよ、とりあえず冬を超えてわたしは別の50+を欲するからだになった。 

人にまた瓶のフタをあけてもらってりんごのお酒をのんだ。

きょう四股は踏めていない。春はまたくるという油断。

春が来た。日が長い。

 

石をあたためいだいて眠る

ふと、まとまらないことを置いておくのにちょうど良いので、twitterをやっています。日本を離れてからはことに、わりとよく使っているほうだと思います。
展覧会によく繰り出して感想をのべている人や、イベントや街の様子、おすすめの本を知らせてくれる街に根付いた本屋さんのつぶやきなんかをよく読んでいます。
その人のことを知ったのも確か、新潟にあるBooks F3という本屋さんのご主人が、お店に立つときに纏うショップコートについて、「お店に立つにあたって、気持ちをしゃんとさせる相棒」とtwitterにつぶやいておられて、それを辿ったところからだったと記憶しています。

 

「その人」というのは、新潟を拠点に服を作られている方で、まっすぐに誠実に、ものづくりと、それを届ける相手に向き合っておられることが、決して言葉数の多くないつぶやきから感じられる人でした。彼女のつづる言葉に魅了されてしばらくしたころ、彼女もわたしのつぶやきを読んでくださるようになりました。ときどき、言葉を交わすこともありました。彼女の撮影する写真から、どことなく感じる北国のさみしさや温かさにシンパシーを感じていました。


その頃の季節は冬。わたしは、二度目の北欧の冬の暗さ、寒さ、さみしさ、重苦しさ、冷たさと、どう付き合ってどう折り合いをつけて過ごせばいいのか、相変わらず手に負えない状況でいつももがき苦しんでいました。そばにいない人を強く想うあまり自分の居場所を認められず、遠くにあるものになにかと心を馳せて、長く重たい冬をうまくやり過ごす手立てを見出すどころか、もがきながら自らの手で沈めるようなことをしていました。


ただ、そんな厳しさの中で見つかる美しさは深く自分に染み込んでゆくものなのだということを、確かめるように日々を過ごしていました。彼女がtwitterにあげる新潟の雪や霧の写真は、季節に抗うことなく、寒さに寄り添うように優しくたくましく過ごされている彼女の姿が映っているようでした。つぶやきを読むたびに、おなじく厳しい冬をやさしく乗りこなす姿が見て取れて、無理しなくていい、できることからやったらいいんだよ、と諭されるような気持ちになり、ずいぶん励ましていただきました。


次に日本に帰ったら必ずお会いしたいという思いがつのりました。厳しい冬のあいだ、彼女がわたしにもたらしてくれたあたたかな安堵とシンパシーは、寒さをしのぐちいさな丸くあたたかい石のほこらのようで、それが本当にありがたかったことをお伝えしたいと思っていました。


そうしているうちに月日はすぎ、春のおとずれを感じる日差しがようやく増えてきた頃、彼女が突然逝去されてしまったことを、twitterを通して知りました。
わたしは、彼女の本名を知らない。お顔も、声も、作られていたお洋服の着心地も、知らない。こんな風に彼女について言葉を綴ることも、申し訳なく思うくらい、わたしは彼女のことをなにも知らない。わたしがこんなにも、彼女のことをなんども思い返していることを、不思議に思う人がたくさんいると思います。
誰かと分かち合える気持ちではないことだけはようくわかるので、誰にいうでもなく、日をおけばどうにかやりすごせると思っていましたが、ふしぎなもので、日に日にこの気持ちが色濃くなっていくのを感じています。
ひと冬の間、冷たく重苦しい暗さから救ってくれた彼女の言葉や景色はきっとこれからも忘れないし、そうやって守ってもらったわたしのなかにある言葉や景色は、わたしに溶け込んで染み込んで、わたしになっていくと思うのです。そうあってほしいし、そうできるように、すごしていきたい。
わたしが彼女の言葉をどんなふうに受け取っていて、これからわたしになってゆくのか、それを彼女に知っていただけたらと思っていたんだけれど、もうできなくなってしまいました。残念とか、悲しいといった言葉にあてはめられない不思議な気持ちが、心のわりとまんなかのほうにこのごろは居座っているのを感じます。

 

伝えたい人が不意にいなくなってしまったとき、どうしてもっと「会いたい」って言っておかなかったんだろう、と後悔をする —— このごろは妙に大人ぶってしまって、会いたい会いたいと尻尾をふりすぎると相手に迷惑がかかってしまうと思うようになって、前ほどの瞬発力を失ってしまっているように思います。
迷惑にならないよう、圧をかけぬよう、ていねいに、「会いたい」をつたえて、そしてなるべくそれを叶えていけるようにすごそうと、改めて心に刻みました。

 

と イカラシさんのご冥福を、お祈りいたします。

おいしいお米のことばかり考えるといろいろとおかしくなるのでやめたほうがいい

20代後半、なにかと盛りの時期を、なぜかデンマークで心身ともにうろうろすることに注ぎ込んでいる人の文章です。

こんにゃくひと塊500円、お豆腐一丁600円、基本的に日本食材は本国の二倍どころのさわぎではないお値段であつかわれるここ冷凍都市コペソハーゲソにおいて、わたしのすこやかな魂と人生を守るための、小さな小さなほこらとして、文章を書き記す場所を設けました。どうか、何卒、やさしくしてください。

 

ヤダ